昭和50年10月30日 朝の御理解

御理解第2節 「先の世までも持ちて行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることができる。みてるということがない」

 「神徳は信心する者は誰でも受けることが出来る」御神徳を受けたい。また、御神徳を受けることが、信心の願いの眼目と言ってもよいわけです。そこで、その御神徳を受けるということは、「信心すれば」と仰る。それは、お参りしておれば、金光様の御信者であればというこではない。どこまでも「信心すれば」である。神様をいわゆる信ずる心は、次第次第に強うなって行く。そして、段々絶対のものになって行くという信心です。信ずる心。
 神徳を受ければどういうことになるかというと、神徳を受ければまず心配がない。不安がない。それに喜びが頂けるというのですから、こんな素晴らしいことはないです。神徳を受ければ心配はない。神徳がない間は心配がある。不安がある。神徳を受ければ、勿論、安心の心には、みてるということがない。限りがないという、言わば、おかげが伴うておる。いよいよ以て素晴らしいことですね。尽きぬおかげ、尽きぬおかげが受けられる。
 身は安心の心、身は喜びの心に浸らせて頂いて、しかも、尽きぬおかげが伴うて来るという程しのものを、成程、「神徳とは天地の親神様の御信用じゃ」と、久留米の初代石橋先生が仰せられたということですが、確かに、天地金乃神様の御信用である。この氏子は間違わん。この氏子はと神様が信用して下さる。そこにやはり、神様を信用する。神様を信ずる。信ずるから信じられる。信じ信じられる仲が生まれて来る。それが御神徳を受けて行く、御神徳を受けさしてもらう有難いところだと思うです。
 そこで、私が申しましたような、反対の心ではです、御神徳を受けられないということが分かります。ちょっと何かが起こると、もう神も仏もあるものかと、もう神仏を疑う。だから、そういう信心では、まずあなたは神徳が受けられないことになるのです。
 そこで、なら、自分の信心を思うてみてです、どのような場合であっても、これは私の信心が至らぬから、足りぬから、これは神様の御都合には違いない、これは神様のお試しかも知れん。いやこれは神様のお試しには違いはないというようにです、これは、全てのそういう受け方、頂き方をさせて頂く頂き方の人の上に、御神徳は輝く。信心すれば神様を信じて疑わないということ。
 それは、初めの間はやはり、疑い半分、いわゆる半信半疑で御信心を頂くわけですけど、段々信心の、言わば、お話を聞かしてもろうて、神様が絶対なことが、お話の上でも分かってくるし、体験の上でも段々に分かって来るし、そして私は、信心がいよいよ好きになって来る。信心が段々好きになって来るという信心ですね。
 いわゆる、「魅苦魅楽」ということを頂いたことがありますが、魅苦というのは、魅力の魅です。それに苦労の苦、言わば、修行に魅力を感じれれると。誰でも好んで苦労は嫌ですけれども、信心が好きになるとね、その、好んででも、自分から願い出てまででも、その苦労がしてみたいということになって来るのです。そこに、信心のやはり不思議さというか。
 私は、これはまだ少年時代に、善導寺にお参りさせて頂いて、丁度御祈念の後に、親先生が御理解代わりに、その時分は、「木綿崎通信」とかいう、今の「金光教徒新聞」です。その新聞の一節を読まれました。
 子供心に非常に感動したというのは、ある方が、胸の病気で、もう医者が分からんというのを、金光様の御信心によって助かられた。そして、その信心の有難さに感動してお道の教師を志されるようになった。そして、学院に行き、それから、親教会を離れて布教に出られた。ところが、誰でも同じですけれども、もう何年経っても道が開けない。人が助からない。もう、食うか食わずかと言ったような毎日を過ごして修行をなさっておられる。
 そこで、本家のお兄さんという方が、ある時に訪ねて見えられて、余りものひどい生活をなさっておられるので、「信心を止めよとは言わないけれども、しばらくまた里に帰らないか」と。「帰れば田んぼも少し分けてやろう。百姓さして頂きながら、頂いたおかげの御恩は忘れてはならんから、信心を続けろ」と。「今のような状態は、肉親として見ておられない」という訳です。
 それを例えば、聞かれた先生が言うておられるその言葉が、私の心を捉えたと申しましょうかね、「ああ成程、兄さん、あなたが言われる通りに、本当に、毎日の御神飯がやっとかっと、御灯明代がやっとかっと、脇から見たら、大変なように見えようけれども、私はも少し苦労がしてみたいと思う」と言われた。その人がですよ、「も少し苦労がしてみたい」と言われた。
 それには、お兄さんも返す言葉がなかったということです。「いや、お前がそれ程まで打ち込んでおれば、もう私も何を言おうか」と言うて帰られたということでございます。それからまあ段々に、日が経つに従って、大変、人が助かる教会になったというような記事でございました。
 信心ちゃ不思議なもの、それだけの、例えば難儀困憊、例えば苦労しておられる人がです、言うなら、救いの手を差しのべられおられる。その救いの手を振り払うて、しかも、もちっと苦労がしてみたいという、まあ信心の世界というのは不思議な世界だということを、まあそういうわけではなかったろうけれども、そういうところに非常に感動したことがあります。信心というものは、そういう不思議な働きを、いつの間にか身につけさせてもらうものです。
 信心が好きにならなければ、いわゆる魅苦である。「魅苦魅楽」というのは、楽に魅せられるというのです。さっきちょっと私は言い方を間違えました。「みく」というのはね、「味苦」ということなんです。味わう味、苦労の苦です。「味苦」、言わば苦労の味わいというのです。味苦魅楽というのが身に付いて来なければいけないというのである。
 苦労の味わいが分かる、そして、楽なことに魅せられない。楽に魅ってはならない。楽な方へ楽な方へと、楽なことばっかり考えるようではです、いわゆる、味苦魅楽のような信心ではです、先ず御神愛、それこそ、もちっと苦労がしてみたいというような、苦労の味わい、信心の味わいというものが分かって来る信心。そこには様々な、深い神様の御神慮もあることでしょう。その御神慮の深さが段々分かって来れば来る程、信心が感動となって来る。いよいよ有難うなって来る。どのような場合にあっても、これはまあだ自分の修行が足りんのだという頂き方。
 教祖様が御晩年の頃、信心に身が入って来る。いわば、味が分かって来るようになるとです、「必ず神様のお試しがありますぞ」と仰っとられたそうですが、どういうお試しでもです、それを受けて答えておれれる信心。それは神様を信じればこそ、それが出来るのです。信心すれば誰でも、信ずる心がいよいよ強うなって来る。稽古が信心の稽古になってくる。と同時に、御神徳を受けて行く稽古です。しかも、その御神徳はみてるということがない。御神徳はもう限りがない。身に受けて行くということは、勿論それに伴うところのおかげもみてることがない。しかも限りがない。
 せっかく信心させて頂くのですから、金光様の御信心は、それこそ、それが先の世に持って行かれるか、後に、子孫にも残ると仰られるがです、それが残るか、また持って行かれるか、それは実際分からない。けど、神様がそう仰られるのだから、まあ持って行けるものとして。けれどもね、持って行けるとか、残しておけるとか、ということは別として、自分自身の心の中に、これが神様の御信用であろう。神様から頂く御神徳であろうというものを、心の中に感じさせてもろうて、それに伴うところの、限りないお徳を受けて行くことがです、これは現実のものです。間違いのないものです。目に見えない世界とか、自分が死んだ先のことじゃないです。
 そして、段々、それを確信されて来るのは、成程こういう心、こういう喜び、この御神徳、このお徳をあの世に持って行けるには違いはない。これなら成程、子孫にも残るには違いないとということは、その後にいよいよ確信づけられて来るのであって、もう現実ね、日々の生活の中に、御神徳の現れ、御神徳はこのように尊いもんだということを、身に付けて、改まらせて頂くということに、信心が頂けるというのは、私は、金光教以外には、信心はないのではなかろうかと思うのです。
 この世では仕方がないから、あの世でということがおかげではなくて、今日、日々の中に、そういうおかげの受けられる。それを指して神徳という。神徳とは神様の御信用、いよいよ神様の御信用を頂かしてもらえれる信心。いかにも有難そうにお参りして来るから、何かが起こると、もう神も仏もあることかと思う。もう信心を止めるというような、過去の状態がちらっとでもあるような人には、まずは御神徳は受けられないと思って間違いない。その証拠には、沢山の金光教の信者は、ここ百十何年間には、出来ましたけれども、本当にこれが御神徳であろうと思われる程の御神徳を受けた人は、非常に少ないからです。
 だから、私は、合楽に御神縁を頂いている方達はです、銘々が御神徳を、しかもみてるということがない、限りがないというのですから、少しでもその御神徳を身に受けて、その御神徳が段々育って行くことを、有難いと心得ての信心を身に付けて行くおかげを頂く。
 今日の御理解を、自分の信心に、照らし合わせてみて、ああ自分はこういう心では、御神徳が受けられないなあという心を、取り除かせて頂く修行、それが私は、日々の改まりということになるのです。言うなれば、おかげの受けられない心ではなくて、御神徳を受けられない心を取り除いて行く心が、私は改まりだということだと思います。
 どのような場合であっても、言わば、動かない、動じない。それはどういうことが起こってくるか分からない。けれども、そういう時から、これは深い、分からないけれども、深い御神意に違わない、神様の御都合に違いはない。いや私の信心がまだ足りないからだといったような、言わば、そういう頂き方が、身に付いてくる信心を一つ頂きたいですね。どうぞ。